裸は、なぜ恥ずかしいのか
男の娘で美術ヌードモデルの春海です。
僕は、仕事柄、人前で全裸になります。
そして、私生活では、オウチでは、全裸の裸族
生活を送っています。
なので「裸」は、僕にとっては、日常的な姿で
す。でも外出時には、ちゃんと服を着て女装で
男の娘を演出しています。
僕のメインの仕事の美術ヌードモデルは、人前
で全裸を披露します。
恥ずかしくないのかと言われれば、実は、少し
羞恥心がありますけど、慣れと申しましょうか
脱ぐ瞬間以外は、ポーズに専念するので羞恥心
は、薄らいでしまします。
まあ、特殊な仕事なので、浮世離れしていて一
般の人から見たら、さぞ恥ずかしいかと思いま
すけど本人は、意外と平気です。
今回は「裸」について哲学的に掘り下げてみた
いと思います。
裸を哲学的に書いていますが、ヌード写真が出
て来るので不快に思う方と18歳未満の方は、
ご遠慮ください。
人の印象を決めるのは服

着衣の僕。
ミニスカートが可愛い女の子に見えます。
実は、胸にパットを入れて憧れのDカップに盛
っています。着衣だと、そんな裏技も出来てし
まいます。
以前、着衣とヌードという記事を書いたことが
ありますけど、人は、服を着ている時と裸の姿
は、全然印象が変わると書きました。
人は、服を着ている姿と全裸の姿だと、かなり
印象が違って見えます。
僕の服装は、女友達にいじられてメークされて
女装して以来、自分の隠れた別なイメージを開
花させて今では、デフォルトがメークして女装
した姿が定着しています。
でもオウチの中では、スッポンポンの全裸。裸
族生活を送っています。
また、美術ヌードモデルを始めて中性的な身体
を評価されてから、女体化に目覚めて、女性的
な身体とBカップの胸にまで成長しました。
仕事や私生活は、一糸まとわぬ全裸ですけど、
普段の外での恰好は、可愛い男の娘です。
少しハスキーな女声と相まって女装がバレたこ
とは、一度もありません。
声を聞いてみたい人は、男の娘が考察する「こ
じらせ女子」という記事を読んでください。
音声入りのショート動画が載っています。
僕は、自慢の美脚を魅せるミニスカートやショ
ートパンツといった露出の多い服が多いです。
トップスも胸の形を強調するようなブラトップ
にカーディガンとか胸の膨らみを強調するもの
を選んでいます。
なので、よくナンパされます。
ということは、可愛くて尻軽女に見られている
のかなと思うと複雑な心境です。
肌見せの多い服装は、男性から見ると好感度が
高いようです。セックスアピールが強いという
ことですね。
でも、女装をカミングアウトという記事に載せ
たようなドレスを纏うと、清楚で可愛い印象に
なります。
また、ナチュラルメークでボーイッシュな服装
をすると活発な女の子の印象にもなります。
人は、服装で印象が変わります。
清楚で真面目そうとか、チャラそうとか、その
人の内面が服装に現れます。
普段着と正装では、また印象が変わります。
日常では、普通みんな服を着ています。
裸の仕事をして裸族生活の僕も外出時には、服
を着ます。
先程も書いたように僕の服装は、女装メインで
すので、男の子なのに女の子に見えます。
ヌードデッサンの時に、会場までは、メークに
女装ですから、たまに早めに会場入りした描き
手さんに会うことが有ります。
ヌードデッサンが始まって僕がガウンを脱ぐと
股間の色白で6センチ足らずの包茎で小さな可
愛いアレに「えっ」と驚きます。
女性的な身体と胸の膨らみ。女性より少し小さ
い乳首や乳輪。なのに、股間には、可愛いアレ
が精いっぱい存在感を主張しています。
可愛い女の子から、中性的な女体化した男の子
の姿が露わになって見る者を困惑させます。
アダムとイブが、禁断の果実をかじってから、
人は、自分が裸なのに気づき羞恥心を覚えまし
た。
以来、人は、服を着る様になったとアブラハム
の宗教では、教えています。
でも本当にそうでしょうか?
人は、原始人の裸の生活から、防寒の為に毛皮
を纏う様になり、文明が進むと共に衣服を発明
して、やがて階級制度やお洒落のために服が華
美になっていきました。
現代では、階層社会は、薄まりましたけど、中
世では、服装で階級を表していました。
豪華絢爛な服は、上位階級やお金持ち。まあ、
それは、今でもありますけどね。
人は、外見からその人を判断します。
女子社会では、未だに可愛いや綺麗のヒエラル
キーが存在して、ファッションセンスが重要で
す。より可愛く見せるために日夜ファッション
を考えています。
男子も、格好よく見せる服装に拘りを持つ人も
少なくありません。
変わらないのは、服が異性を惹き付けるアイテ
ムだということです。
その人の個性や人格を服というアイテムで表現
している人間社会。その服を取り去ると、どう
なるのでしょうか?
裸は、なぜ恥ずかしいのか

サンドロ・ポッティチェィリのヴィーナスの誕
生。1483年頃の作品です。
この当時は、裸を描くには、こうした神の題材
と絶妙に裸を隠す技巧が持ち入れられました。
裸は、一種のタブーだったんですね。
仕事で美術ヌードモデルとして大勢の目の前で
全裸になる僕。
ガウンを脱いだ瞬間、湧き上がる羞恥心。そし
て例えようのない解放感と共になんだか一抹の
不安を感じます。
服を着ている「隠された自分」が、在りのまま
の姿になって人目に晒される感覚は、やったこ
とのある人で無いと解らない気分です。
全身隅々まで舐める様に降り注ぐ熱い視線。
他人の裸は、好奇心の的です。
本来なら僕は、男なので、大事な部分以外は、
見られても平気なんですが、女性的な身体に育
て上げたので胸や身体を見られる羞恥心は、女
性と同じです。
自らの意思で女体化したのですが、胸の膨らみ
や、女性より少し小さい綺麗な乳首や乳輪を見
られるのも恥ずかしい感じがします。
ヌードデッサンで全裸でモデル台に上がった瞬
間、いつも(ああ、見せちゃった)と僅かばか
りの自責の念を感じます。
でも、誇りをもって裸になっています。
芸術のために脱ぎ、芸術のために人間の自然美
を観察するヌードデッサンでは、モデルの全裸
は、ごく日常の風景です。
でも、ヌードデッサンに参加したことの無い人
が聞くと、性器丸出しのオールヌードのモデル
に対してエッチな感覚を感じます。
だって、衆人環視の中で一人だけ全裸で、全身
をじっくりと観察するんですよ。日常では、あ
り得ない光景です。
脱ぐほうも見るほうも恥ずかしい感じ。
ただ服を脱いだだけなのに、湧き上がる不思議
な気持ち。
人は、人前で裸になると、なぜ恥ずかしいので
しょうか。
フランスの哲学者サルトルは「裸は、主体から
客体へ変化する」と言っています。
何のこっちゃ・・・詳しく解説します。
服を着ている時は、自分が自分だけの世界(私
中心の)に居る時は、自由な存在だけど、裸を
誰かに見られた瞬間、自分は、他人の視線の中
にある対象物となります。
つまり、服というアイテムで自分のイメージを
保っていたのが、裸は、ただの肉体という見ら
れる対象になってしまうということです。
裸を見られることは、自らが主体であることを
奪われて、他者の視線によって変えることので
きない固定された何かにされてしまう恐怖を覚
えるとも言っています。
もっとかみ砕くと、服というベールをはぎ取ら
れた人は、裸を見られることで、その秘密を暴
露するということ。
人は、自分の本性や生身の身体を見られること
に、ある種の不安を覚えます。
軍隊や刑務所に入る時の身体検査が、全裸なの
は、その不安を利用した精神的な束縛です。
裸にされることで、支配される気持ちになると
いうことです。
裸は、自分の本質を隠していた時間が終わり見
られる対象物として固定された自分と向き合わ
される感覚になるということです。そこに羞恥
心が生まれます。
僕に例えると、着衣の時は、可愛い女の子。
服を脱ぐと、女性的な身体の男の子。
隠すものが無いと正体がバレてしまう。
何も隠すことの出来ない不安を感じる。
僕の本質が、見えてしまう。恥ずかしい。
そんなところでしょうか。
裸は、自分自身の本質を現します。まさに在り
のままの姿を見られる。
服を着て一人の個性のある人間として見られて
いたのに、服を脱ぐと全身の動物的な容姿や性
的な生々しさを感じます。
着衣とヌード。その差は大きいです。
フランスの哲学者デカルトは、裸について人間
の二元論的な存在を説いています。
それは、魂の占める非物理的な領域と、物体の
占める物質的な領域に分けられるということ。
裸は、生身の「物体」ということです。
肉体が、服に隠されている時は、個人が成立し
ているけど、全裸を見られると生々しい肉体と
いう物質になってしまうということです。
確かに、僕も美術ヌードモデルをしている時は
まるで生きた彫刻のように、裸体という物体に
(モチーフ)に変化してしています。
見るほうも、僕のプライベートな部分を凌駕し
て裸体という物体的モチーフを眺める感覚にな
ります。
芸術における裸体への感覚は、残酷なまでの徹
底した観察の対象になります。
モデル個人の尊厳すら薄れる感じです。
入浴施設などでは、他人の裸が、視界に入って
もジッと観察することは、ありません。
カップルや夫婦でも見るには見るけど観察する
というこまでは、しません。
なので人は、意外と裸のリアルを知りません。
裸は、朧げな記憶の中で合成された記憶です。
その点、美術ヌードモデルは、裸体を在りのま
まに観察できる唯一の対象物です。
ヌード写真集のヌードモデルやAV女優でも裸
は、見れますけど一部修正が、入っています。
それでも人は、ヌードを想像力を働かせて楽し
むことが、出来ます。
他人の裸を見る喜びは、古代からあります。
それだけ隠された姿を見たい欲求が存在すると
いうことです。
他人の恥ずかしい姿を見たい願望は一体どこか
ら来るのでしょうか。
裸の性的な関係性と羞恥心
服を着ていない動物さんの多くは、毛皮をまと
っています。でも、性器は、動物の種類により
ますけど犬や猫は、丸見えです。
知的生命体の人間も、服を脱ぐと性器が丸見え
になります。男性の場合は、一目瞭然です。
女性は、アンダーヘアーに隠れて見えにくいで
すけど、薄い人は、少し見えますし、体勢によ
っては、外性器が見えます。
裸の何が一番恥ずかしいのかっていうと、性器
の露出です。
性器を恥ずかしいと思うのは、人間だけです。
僕は、アンダーヘアーをツルツルに処理してい
ます。それが、小学生みたいな先っちょの尖っ
た小さな可愛いアレに合っています。
芸術の世界では、見えているもの全て、性器も
観察の対象になります。
美術ヌード仲間の女性が、僕を真似てアンダー
ヘアーを処理したのですが、小股の割れ目が丸
見えになって「男性ヌードモデルの気持ちがよ
く解ったわ」と言っています。
それだけ性器を他人に観察されるというのは、
羞恥心を伴います。
ところでお花は、好きですか?
多くの女性は、お花が好きですよね。
でも、理科の授業を思い出してください。お花
には、雌しべと雄しべがありますよね。
つまり、お花って植物の性器なんです。
動物は、性器を平気で見せていますし、お花に
至っては、性器を全面的に主張しています。
つまり花束を貰って喜んでいるのは、性器の束
を貰って喜んでいるのと同じなんですよね。
それなら松茸とアワビの詰め合わせをプレゼン
トしたらどうでしょうか?
美味しそうと思うか、妙なニュアンスになるこ
と請け合いです。
話しは、少し脱線しましたけど、裸が恥ずかし
い理由は、性器を見られることです。また、女
性なら性的な身体の特徴を見られることです。
美術ヌードモデルは、ヌード写真集やAVと決
定的に違うのは、本当のスッポンポンの姿を生
で、じっくりと観察されることです。
そこにボカシやモザイクは、ありません。男性
なら性器が丸出しです。
僕は、メークしていますけど男の子なので当然
小さいとはいえ男性器が付いています。
でも胸の膨らみと綺麗な色の女性より少し小さ
い乳首や乳輪。ウエストのくびれ。柔らかな腰
から脚への曲線美が、女性みたいな身体です。
僕の中性的な「性」が、丸見えです。
全裸でモデル台に上がると、描き手は、僕の性
的姿を目前に興奮を禁じえません。
実際に僕のヌードを描いた女友達に聞くと、正
直言うと少し興奮するとのことです。
全裸を晒して容赦なく観察される姿に哀愁みた
いな感じと、サディスチックなエッチな感覚を
覚えずには、いられないそうです。
珍しい中性的な容姿は、注目の的です。
描き手さんの視線が熱い熱い。強烈です。
性器を含めて身体の全てをモチーフとして見ら
れる美術ヌードモデル。芸術のためとは、いえ
裸になるそのメンタルは、さぞ強靭なものだと
思いますよね。
余程鍛え抜かれた精神で脱いでいる?
まあ、鍛えてはいるんですがそれは、皆さんが
思うようなストイックなものでは、無くて、も
っとナチュラルな感じなんです。
男性ヌードモデルの中には、筋肉を鍛え上げて
ストイックに作り込んでいる人もいますけど、
男女共に、羞恥心は、ガウンを脱ぐ瞬間だけ。
ポーズを取っている間は、動かないことに専念
しているので羞恥心も薄れる感じです。
だから、裸を観察されても恥ずかしいという感
覚は、薄くただ仕事として淡々と脱いでいるだ
けなんです。
もちろん、皆さまに見せるためにボディーメン
テや体幹トレーニング、鏡の前でポージングな
ど見えない努力もあります。
裸を見られる側は、慣れや芸術に捧げる犠牲的
な精神からくる達成感は、ありますけど意外と
平気なんです。
羞恥心ゼロでは、ありませんけどね。
裸を性的に思うのは、むしろ見る側です。
視界に全裸のセクシーな裸体が入ると、人は、
性的な感覚に自然になります。
美術ヌードモデルの裸は、芸術のためのモチー
フですので、描く対象として観察している間は
表現するのに夢中で性的な感じは、薄れますけ
ど、ふとした瞬間にモデルのエロスを純粋に感
じます。
人の裸には、性的な魅力が溢れています。
ドイツの哲学者カントは、「性愛は、愛される
者を欲望の対象にに変える」と言っています。
服を着た主体性を持った存在から、服を脱いだ
裸は、目的を果たす手段に変えるそうです。
裸は、肉体を持つ人物そのものが、物理的な対
象になるモノ化してしまう現象だそうです。
裸体は、性的な欲求を満たす対象物なんです。
裸に宿るエロティシズム

僕の裸体を見て皆さんは、どう感じますか?
メークした顔。Bカップの胸の膨らみと女子よ
り少し小さな綺麗な色の乳首や乳輪。ウエスト
のくびれ。ややふくよかなお尻から太ももへの
曲線と脚線美。
そしてボカシていますけど股間には、色白で小
さい包茎の男性器が「えっ」という感じです。
ボカシで膨張して見えますけど、実際は、正確
には、長さが5.5センチ。先端の尖った包皮
が約1センチなので、正味4.5センチ。ピョ
コンと可愛いサイズです。
股間を見なければ、女性に見えるヌード。
実に、中性的な不思議な裸体です。
記事冒頭の服を着た写真は、女の子ですが、こ
うして服を脱ぐと、一部を除けば、より女性的
になる僕。
これが、僕の在りのままの姿です。
何も着ていないとエッチな身体です。
両性具有な中性的な妖艶さも漂う裸体。
エロスダダ洩れのドキッとする感覚。
そう見えるのは、人として自然なことです。
それは、悪い事では、ありません。裸体に性的
な感覚を持つのは、正常なことです。
僕は、美術ヌードモデルを描く側から脱ぐ側に
なったので、裸になる意味を知っていました。
他人の目から見たら裸体は、エロティシズムを
感じる対象です。
エロティシズムとは、現代的な「エロ」とは、
違って、性的欲求(リビトー)を単なる生理現
象では、なく美学、芸術、精神的な概念として
捉えたもの。とあります。
芸術世界では、裸体は、人間の自然美です。
裸もエロでは、なく「美」として捉える。
しかし、多くの人は、裸体をエロ、性的欲求の
対象物と見てしまいます。
それは、それで自然なことです。
でも、芸術では、一歩踏み込んだ崇高なものと
して裸体を扱っています。
しかし、裸体も芸術として扱えば美になるけど
その本質は、エロなんです。
美しい裸を見たいという依頼者の欲求を満たす
ために描かれたり彫刻されたりと、本質は、性
的な欲求を満たす言い訳なんですよね。
いつの時代も人は、エロを追求してきました。
それは、決して悪では、ありません。
宗教的にタブー視されたりしますけど、裸や性
欲を是とする宗教もあります。
人間が生まれてくるためには、セックスは、絶
対に必要なことです。性欲も大事な欲求です。
それを戒める宗教のほうが、むしろエロを過剰
に意識しているのでは、ないでしょうか。
裸に感じる性愛的な感覚は、むしろ美徳です。
僕は、恥ずかしいけど美術ヌードモデルとして
人間の持つそうした性的な本質を魅せることに
崇高な意義を感じています。
努力して作り上げた美しい裸体を披露出来る喜
びは、美術ヌードモデルの誇りです。
それを観察する描き手は、僕の裸体の自然美を
堪能しつつ、同時に溢れ出すエロスに目で性欲
を満たします。
中には、それが目的でヌードデッサンに参加し
ている人も居るかもしれません。
描くのに夢中で性的に感じなくても人の裸体が
発するエロスは、強烈です。
そもそもヌードデッサンをするということは、
他人の裸を観察するということなので、芸術の
ためとはいえ、本心では、エロス漂う裸体を見
たいという欲求が本当のところだと思います。
芸術の為といいつつ、他人の裸を見たいという
のが本心では、ないでしょうか。
でも、人体の構造を学ぶには、服を取り去った
裸体を描くのが手っ取り早いので、芸術を学ぶ
には、ヌードデッサンは、欠かせないです。
僕自身も、人体を学ぶためにヌードデッサンに
参加したのですが、本心は、美しいヌードを見
てみたいというのが本音でした。
全裸のヌードモデルを見て、エロティシズムを
感じずには、いられませんでした。
やっぱり、裸は、エッチです。
今では、そのエッチな裸を見せる側です。
ポーズをとっているうちは、羞恥心も薄れます
けど、脱いだ瞬間は、恥ずかしい。
僕のエロスが丸見えですもの「見られた」とい
う感じは、何とも心もとない感じです。
描き手は、僕の裸体を見て様々な想いで全身を
観察してきます。そしてジッとポーズをとって
なすがままに見つめられる気分は、何とも言え
ない感じがします。
肉体美として見ているのか、エロとして見てい
るのか・・・それは、描き手次第です。
美術ヌードモデルとして脱ぐ以上は、そのどち
らでも受け入れるしかありません。
まとめ
僕は、美術ヌードモデルを始めてから約8年に
なります。その間、女体化や女装と目まぐるし
い変化をしてきた僕。
今では、中性的な男の娘ヌードモデルとして、
自信を持って美しく育て上げた裸体を芸術に捧
げています。
人前で脱ぐのには、慣れてきましたけど、ガウ
ンを脱ぐ瞬間は、今でも恥ずかしいです。
裸を見られる。それもジッと観察されるのって
人として稀なケースです。
服を脱いだ人間の姿は、自然美ですが、エロス
が溢れ出してきます。どう大義名分をつけて言
い訳しても裸は、エッチな要素が多いです。
裸が恥ずかしいのは、隠している或いは、隠し
たいモノが丸見えになるから。
そこには、他人の視線が介在しています。
仕事でそんな裸を見せている僕ですが、慣れと
はいえ、羞恥心は、完全には、隠せないです。
それでも人前で脱ぐのは、芸術のお役に立ちた
いという犠牲的な精神から来る自尊心かもしれ
ません。
僕の裸が、色んな意味で役にたつなら嬉しいと
思う今日この頃です。
