着衣とヌード。裸は、印象が変わる
美術ヌードモデルで男の娘の春海です。
僕は、女装をするので、二つの顔を持っていま
す。正確には、メークの度合いで数種類の顔に
変化します。
そして職業柄、裸になるので、脱ぐと印象が、
ガラッと変わります。
今回は、人の裸の「印象」について書いてみ
たいと思います。
ヌードが出て来るので不快に思う方と18歳
未満の方は、ご遠慮ください。
服装で変わる人の印象
中性的な男の子ですね。
これは、僕がナチュラルメークをしてボーイッ
シュな女性物の服を着た姿です。
珍しい服を着た僕の姿です。
それもなんだか妙な話しですが、僕も外出時に
は、ちゃんと服を着ています。
(ノーパンの時もあるけど・・・)
ちょっと女装とは、雰囲気が変わります。
う~ん。ジェンダーが曖昧です。
女物の服なんですが、男の子に見えます。
でも中性的な雰囲気も漂います。
男装をした女子にも見えます。
この様に人は、服装でイメージが変わります。
しっかりメークして女装すれば、女の子に変身
することもできる僕。
様々なイメージを作ることが出来ます。
僕の女装は、ともかく人は、服装で自分の印象
操作を毎日しています。
服装によって人柄や性格まで見えてきます。
女性なら可愛らしく見せたり綺麗に見せたり。
カジュアルとフォーマルでも全然印象が変わっ
て見えます。
服は、人間にとって無くてはならない重要なア
イテムの一つです。
僕は、美術ヌードモデルをしているので、時々
早く来ている描き手さんに着衣で会うこともあ
るのですが、着衣とヌードだとイメージが全然
変わると驚かれます。
僕の場合、多くは、女装してアトリエに足を運
んでいるので、脱いで股間を見られて初めて、
「ああ男の子なんだ」と思われます。
後で詳しく書きますけど、服を着ていると清楚
なショートカットの似合う女の子、脱ぐと貧乳
の女の子みたいな男の子。
そのギャップに、みんな驚きます。
僕、脱ぐと、もっと女性的なんです。
印象。なぜ「象」なの?
インドのヒンドゥー教の神様ガネーシャ。
商売繁盛や成功を導くご利益があると人気のあ
る神様です。その人気は、偶像崇拝が禁止され
ているイスラム教徒でも人気があるそうです。
ん?なんで、象の神様が?
思ったことありませんか。
なぜ印象という言葉は、印に「象」なのか。
ゾウさんが、何の関係があるのか。
実は、この「象」本当にゾウさんなんです。
漢字の象という文字は、昔々4000年ほど前
に、中国で象の化石を発見した人が、大きな動
物の象徴として象形文字にしたことに由来して
いるそうです。
化石の象から、どんな動物だったのかを想像す
る様から「形」を表す意味になったそうです。
なので、特徴的な印を形どるものとして印象と
いう言葉が、生まれました。
ここから、現象、気象など「象」使う言葉が派
生しています。
象形文字って奥が深いと思いました。
因みに「裸」のハダカの語源は、ハダアカだそ
うです。漢字のほうは、衣を脱いだ丸みのある
果実から由来しています。
果は「あからさまになる」を意味して、成果の
様に使われます。
「ハダアカ」のハダは、肌。アカは、赤です。
赤は、色の意味のほかにも「明らか」「何も隠
されていない」という意味を持ち、肌がオープ
ンになった状態を示します。
それが縮まって「ハダカ」になったそうです。
僕も、裸になると男の子の「印」の可愛い包茎
の「象」さんが見えます。
この象さんは、小さく色白で先端の尖った包茎
ですが、人気者です。
ちょっと、脱線しましたが「印象」の語源を知
ると、なるほどと思う豆知識でした。
着衣とヌード。在りのままの印象
僕の女装とヌードの比較です。
こうして着衣とヌードを比べて見られると、ち
ょっと恥ずかしいですね。
服を脱ぐと、より中性的になる不思議な身体で
すね。股間のボカシが強いので女性のヌードに
見えます。
着衣のほうもロングニットがボディーラインを
強調してボーイッシュだけど女性らしい感じが
します。
肩幅が若干広く、骨格がやや男性的な以外は、
曲線的な身体のフォルム。ウエストのくびれ。
Aカップの可愛い胸の膨らみと、男性としては
大きい綺麗な乳首や乳輪。そして脚線美。
試しに指で股間を隠して見てください。
あら不思議、女性のヌードに見えます。
こうして、メークして女装したままで美術ヌー
ドモデルをすることも、よくあります。
描くほうは、さぞ困惑するか、凝視するかです
よね。
僕の感覚では、しっかり細部まで観察されてい
る感じが濃厚です。視線の熱量を感じます。
着衣とヌード。何とも言えない響きです。
人は、普段、服を着ています。
その着ている服装から、清楚な印象、真面目そ
う、派手目な印象など様々なイメージを重ね合
わせます。男か女かもそうですね。
でも、ジェンダーが曖昧な現代、女性物の服を
着る男性もいるし、逆に男性的な服装をする女
性もいます。
僕みたいに、もろに女装しちゃう人も居ます。
日常的に、人は、服装で人を判断しています。
さて、その「服」がなかったら、どうなるので
しょうか?
上の写真の様に、着衣とヌードを並べて見ると
一見、違う人に見える感じです。
脱いだだけなのに、裸の印象が強烈です。
ヌードは、裸の生々しさが色濃くでます。
でも、これが、僕の在りのままの姿です。
着飾る物が、何も無い無垢な姿。自然の芸術作
品です。
僕は、美術ヌードモデルなので、この「作品」
を披露します。
着衣の時の可愛い印象からエロティックな印象
に大変身します。
顔は、同じなのに裸になると妖艶さも滲み出て
きます。不思議ですね。
こうして客観的に自分のヌードを着衣と比べて
見ると、なんだかエッチな感じがします。
裸を見せる=エロスを見せる
着衣のマハと裸のマハ。
フランシスコ・デ・ゴヤの作品です。
裸のほうが先に描かれています。
敢えて着衣のほうも描いたのは、現代版の着衣
とヌードの絵画バージョンの先駆けです。
これは、裸のマハをカモフラージュするために
後で作成されたとも言われています。
裸の作品のほうが妖艶で女性らしい風情がたっ
ぷりです。そしてエロい。
ヌードは、やっぱりセクシーです。
この様に、先ほどの僕の着衣とヌードの写真と
同じく、着衣と裸を比べて見ると同じ人なのに
全然違うイメージに見えます。
生々しい生命力を感じます。
人の裸には、エロスが宿ります。
つまりエッチだということですが、それが人の
裸の本質でもあります。
僕が、美術ヌードモデルで裸になるということ
は、僕のエロスを見せている事と同じです。
エロスとは、古代ギリシャでは、「真」「善」
「美」とされ崇高なものとされました。
だから、裸の作品が多く残されています。
裸を純粋に「美」として見ていた時代。
現代のエロとは、違う概念。羨ましいです。
でも、エッチなことには、変わりありません。
しかし、それ自体自然なことです。
彼氏が、僕の裸に発情する理由は、エロスの賜
物です。裸は、その人のエロスを体現します。
美術ヌードモデルは、そんな欲情を呼び覚ます
姿を披露しています。でも、芸術のために脱い
でいますし、描くほうも人間の本来の姿を観察
するのに必死ですから双方ともにエッチな感情
は、希薄です。
でも自分では、見えないけど、僕のエロスが、
赤裸々に見られていると思うとポッと羞恥心が
湧いてきます。
それが、服というアイテムを普段身に着けてい
る人間の正直な感情です。
そして、羞恥心に耐えてエロスを見せ続ける美
術ヌードモデルという仕事に、誰もが出来ない
特別な意識を持ち崇高な気持ちになります。
まとめ
人は、服を脱いで裸になると在りのままの姿が
露わになります。
脱ぐと、人って印象がガラッと変わります。
着衣とヌード。それは、人間だけの特別な現象
といえます。動物は、常に裸ですものね。
そして裸の印象は、その人のエロスを余すこと
なく表現してくれます。
美術ヌードモデルは、それを全開放します。
それを描き手は、入念に観察します。
僕は、仕事柄それを頻繁にしているのですが、
慣れたとはいえ、羞恥心を消すことは、出来ま
せん。
まあ、その淡い羞恥心が、芸術に色気を添えて
いるのも事実です。
これからも羞恥心を纏いつつ自然美を披露して
いきたいと思います。